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    アーカイブ 日本トランスユーロ広報誌 コラム 2000/04/01 桜井 元
    変貌する首都ベルリン――壁が消えて10年(日本トランスユーロ広報誌 コラム 2000年4月 第41号)
    「まだ壁はどこかに残っていますか」
    「ブランデングルク門は小さいですね」
    「工事が多くて落ち着きませんね」
     ベルリンを初めて訪れた人からよく聞く言葉のベスト3だ。「ベルリンの壁」を実感したい人は、東ベルリンの一角、旧東独首都の中央駅、いまは「東駅」と格落ちの名前にかわった駅の近くに案内する。ここに残る壁はなぜか「イーストサイド・ギャラリー」と英語で呼ばれる。東西ドイツ統一後、各国の美術関係者が集まって、1㌔メートルの壁に思い思いの絵をかいた。五重塔と富士山の絵もある。かなり汚れてきたが、かえってそれがくすんだ味に。「ちょっと車から降りて写真を撮ってもいいですか」。誰しもカメラを構えるポイントだ。
     ブランデンブルク門にやってきた人は、ちょっと期待外れという表情を見せる。パリの凱旋門とはスケールが違い、こじんまりしているからだ。しかし、ここは歴史の重み、劇的な転変を象徴する場所だ。
     ベルリンの壁はかつて、門のすぐ西を走っていた。この場所は、戦車が突っ込んでも簡単には崩れないよう、しっかり補強されていた。西側には「ここから先には行けない」という注意書きの看板が立っていた。東の市民に向かって叫ぶ彫像は、今も大通りの中央分離帯に残る。
     柱と柱の間隔が狭いため、一方通行だが、今や車もブランデンブルク門の下をくぐり抜けていく。もちろん、歩いて通り抜けることもできる。「あっけなく通れてしまうのですね」。東独の兵士が、西へ逃れようとする市民を銃撃した緊迫感は、どこにもない。冷戦が終わったことを体験するわけだ。
     威圧感はないものの、ライトアップされたり、花火に彩られたりするこの門は、たしかに「絵」になる。
     壁が崩れて10周年を祝った昨年11月9日夜、門のまわりを通行止めにし、広場に特設された舞台には、ゴルバチョフ旧ソ連大統領、ブッシュ前米大統領、コール前独首相ら当時の主役がそろい、シュレーダー独首相が司会者のように紹介した。ドイツのベテランシンガー、ウド・リンデンベルクが久々に熱唱を聴かせた。10年前にこの地で独奏を聴かせた旧ソ連出身のチェリスト、ロストロ・ポーヴィッチさんの指揮で、オーケストラやチェロ・アンサンブルが演奏を繰り広げた。
     「2000年スタート」を告げる1999年大晦日のミレニアム・イベントには、ブランデンブルク門から旧帝国議会、普仏戦争の戦勝記念塔、まわりに広がるティアガルテンの広大な公園に、100万人を超える人々が押し寄せた。花火のほか、戦勝記念塔ではレーザー光線が交錯する演出があり、ナチス時代に計画された演出に似ている、と批判もあった。特設ステージには次々に欧州のバンドが登場、午前5時すぎまで、あたりは巨大な「野外ディスコ」と化した。門の周辺は、東京の地下鉄のラッシュアワー以上の混雑で、入場が規制され、舞台に押しつけられて救急車で運ばれた人も出た。
     ソーセージ100万本、ビール200万㍑が消費されたという。熱燗の赤ワインともいえる「グリュー・ワイン」を売る屋台には、長蛇の列ができた。仮説トイレが足りなくて、公園の茂みの中や工事現場の物陰に入っていく人が続出した。
     ブランデンブルク門周辺は、欧州を代表する「お祭り広場」といえそうだ。昨年9月、「ドイツにおける日本年」開幕コンサートでは、THE ALFEEや米良美一さんらが歌声を響かせた。硬軟両様、さまざまなイベントをこの門は見守ってきた。そのたびに通行止めになるので、タクシー運転手には不評だが、市民はここに足を運ぶ。
     首相府をはじめ、いくつかの役所が工事中だ。その中で、全面改装を終えて新しいガラスドームをのせた旧帝国議会は、市民や観光客に人気だ。「帝国議会」という昔の名前の建物に、戦後の下院である連邦議会が入ったので、名称をどうするか論争があった。「旧帝国議会内の連邦議会本会議場」とでも訳せばよいのか、折衷案が採用された。威風堂々の建造物、4本のマストに翻る大きなドイツ国旗は、「帝国」の名前に似合っている。
     そのいかめしさを打ち消す役割が、ガラスドームに期待されている。太陽の光を本会議場に注ぎ込ませるドームは、環境を重視する設計であると同時に、戦後民主主義の「透明性」の象徴でもある。その中をらせん状にのぼるスロープから、のぞき込めば連邦議会の本会議場が見下ろせる。ブルーの議員席、太ったワシのシンボルが目立つ。ドーム頂上部は、ベルリン市街地を見渡せる展望台でもある。夜10時まで公開。日本の国会では考えられないサービスだ。真冬でも入口には行列ができる。
     ここから見える夜景で、ひときわ目を引くのがポツダム広場だ。壁の時代、ここは空白地帯だった。いまダイムラー・クライスラーが開発したビル群と、ソニー・ヨーロッパセンターが向かい合う。ダイムラー側には、ショッピングセンターのほか、ホテル、映画館、カジノ、マンションができ、回転すし屋まである。ソニー側は一部が完成、6月に全面オープンの式典がある。それを待たず、ソニー・センターはベルリン映画祭の主会場となる予定だ。欧州の新しい文化スポットになる。
     かつて、東ベルリンの中心といえば、テレビ塔が見下ろすアレキサンダー広場だった。この近くには、「赤い市庁舎」の別名をもつ煉瓦づくりのベルリン市庁舎がある。統一後も、ここで市長が執務する。人民議会の建物は、アスベスト使用問題などでいまは空き家だが、前の庭には今もマルクス、エンゲルス像が立つ。時々、社会見学の子どもたちが、教師に引率されてやってくる。この一帯は今も人通りはある。が、全体に活気はなく、東独の印象をどこか引きずっている。「何となくワルシャワのようですね」。そんな感想も聞いた。
     アレキサンダー広場より人通りが増えたのは、フリードリヒ通りだ。目抜き通りのウンター・デン・リンデンから旧チャーリー検問所に抜ける道の両側。パリのデパート、ギャラリー・ラファイエットの支店がある。高級ブティックの並ぶファッションビルがある。あたりのオフィスビルには、空室も目立つが、大企業の支店がだんだん増えてきた。メディアの事務所も多い。私も(プレスセンター完成までの)暫定支局を構え、わずか半年足らずだったが、そこから徒歩2分の新築マンションに住んだ。便利なところだが、緑がほとんどなく、ほこりっぽいのが理由だろうか、ダーレム、グリューネヴァルトなど西の高級住宅地よりかなり家賃が安かった。
     フリードリヒ通りを横切って、2列の敷石が埋め込まれている。「ベルリンの壁――1961年から89年まで」と書いた金属板も。目立たないので、気づかずに通り過ぎる人が多い。でも、時にじっとたたずむ高齢の観光客を見かけた。かつて米ソの戦車が、この検問所をはさんで向き合った。当時、駐留していた元軍人かも知れない。街から消えたあの緊張感が、胸の奥にうずいているのだろうか。
              (2000年4月“Nippon Transeuro News”第41号 に掲載、次号に続く)



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