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    アーカイブ 西日本新聞社編 書評 2020/11/01 豊田 滋通
    戦後10年近く続いた「原爆を書けなかった時代」
    西日本新聞社元監査役・論説委員長 豊田滋通
     西日本新聞社(本社・福岡市)の監査役をしていた2015(平成27)年から17年にかけ、社命を受けて本紙の創刊「140年史」を編纂した。
     折しも2015年は、戦後70年の歴史的節目。この年、編集局の若い記者たちが「新聞の使命 原点見つめて」というタイトルを掲げ、本紙の戦争報道を検証する「報国のペン」「不戦のペン」という長期連載を展開した。記者自身が本紙の戦争報道を検証し、読者に伝えるというわが社では初の試み。私もこれに触発され、編纂中の「140年史」に「本紙の原爆報道検証」という一稿を起こそうと考えた。かつて長崎総局に勤務した記者として、それが「70年目の責務」とも考えたからである。
     ◇原爆報道の戦後紙面を検証
     私は1980(昭和55)年から4年間、二カ所目の赴任地として長崎に勤務したが、戦後10年近くも続いたという「原爆を書けなかった時代」のことが、離任後も気になっていた。社史編纂をきっかけに、戦後10年余の本紙紙面を検証してみようと思い立った。
     その過程で、原爆投下から1年後、昭和21年8月8日付紙面の「原子症は癒(な)おる ゐない再發者 嬉しや惠まれた子寶」という奇怪な記事に出くわした。
     これは当時、長崎大学外科部長だった医師に「學界未曾有の『原子症』その後の模様はどうか」と聴いたインタビュー記事。医師は「1年後の今日、原始症再發の例はない、また外傷、火傷および放射能作用による内部症も快癒しつつある」と断言した。当時はまだ放射能障害の実態が分からず、死因さえも明確ではない死者が相次いでいた。『長崎の鐘』『この子を残して』などの著作で知られる永井隆博士が、白血病で亡くなったのは昭和26年のこと。被爆のわずか1年後、どんな意図をもって、このような記事が掲載されたのかは謎のままだ。
     紙面点検を進めるうち、不可解な思いはさらに募った。終戦の5年後に朝鮮戦争が勃発し、東西両陣営の対立が激化。昭和25年8月9日の朝刊トップは朝鮮戦争の戦況報道で、長崎原爆関連の記事は見当たらなかった。翌10日のトップは「警察予備隊政令愈よ公布」で、この日も朝鮮半島の戦況記事はあったが原爆報道はなかった。
     その後、米軍の戦略上の機密として原爆報道が厳しく統制された時代は、サンフランシスコ条約発効で日本が再び独立を回復するまで続くことになる。
     ◇原子力平和利用と「祈りの長崎」
     そして被爆10周年のころ、「原爆の日」の紙面はまた違った様相を見せ始める。昭和30年8月9日の朝刊1面トップは「国際原子力会議開く」「水爆、20年内に動力化 平和維持へ国際機構」で、原子力エネルギー平和利用の積極的意義を前面に押し出した紙面展開。同日付夕刊社会面は、完成したばかりの平和祈念像前で開いた平和祈念式典(=写真)や浦上天主堂のミサの模様を「世界平和へ長崎の祈り」と伝え、平和公園で本社機が平和の祈りを込めた花束を投下したことを報じた。この日も夕刊1面は「国際原子力会議」の詳報で「経済的原子力発電へ」の大見出し。平和は「祈るもの」、原子力は「利用するもの」という時代の波が新聞紙面にも波及した。
     このころを境に、第五福竜丸事件(昭和29年)をきっかけとした原水爆禁止運動が燎原の火のように広がって行った。政界は、自社二大政党の55年体制を基軸とする保革対決の時代に突入。反原爆の平和運動も、原水禁、原水協、核禁会議など政党系列ごとに分断され、「政治の季節」を迎えていった。
     米ソ冷戦時代の原爆報道は、唯一の被爆国の惨禍を訴えながら、米国の「核の傘」に守られる日本の現実を否定もできないという二面性を抱えていた。日本は非核三原則を「国是」として掲げながら、国内は核搭載艦船の寄港や沖縄への核持ち込み疑惑に揺れ続けていた。私が長崎総局に赴任したのは、ライシャワー元駐日米大使の「核持ち込み」発言で国内が騒然とし、中距離弾道ミサイル(戦域核)配備問題で欧州に大規模反核運動が吹き荒れた昭和50年代の半ばである。
     ◇「ナガサキ記者」を育てた人たち
     長崎総局では歴代、長崎市政クラブ詰めの記者が原爆報道を担当した。「原爆担当」の記者は、8月9日の前後だけではなく、年間を通じて被爆者の援護問題や核開発・核軍縮をめぐる世界情勢などに神経を研ぎ澄ませた。中でも毎年7月下旬から8月上旬、「原爆忌」に向けて本版社会面に掲載する「原爆連載」が最大のヤマ場。先輩からは「連載のテーマを何にするか、悶々として平和公園をさまよい歩いた」などという話を聞かされたものだ。
     私は、当時ようやく光が当たり始めた長崎市の被差別部落の被爆体験をテーマに選んだ。このころ、新聞でも少しずつ朝鮮人被爆者や外国人捕虜の被爆問題が取り上げられるようになり、被爆国・日本の被害と同時に「加害者」としての側面も指摘されるようになった。しかも、朝鮮人被爆者や被差別部落の被爆者は、戦後、二重の差別の中を生き抜いてきた人たちだ。
     赴任当初、原水禁と原水協の違いすらもよく知らなかった私に、朝鮮人被爆者の悲惨な戦後史を語ってくれたのは長崎福音ルーテル教会の岡正治牧師だった。岡さんは、市内で唯一残っていた朝鮮人徴用工たちの朽ち果てた宿舎を「一緒に見に行こう」と誘い、保存と記録の重要性を熱く語った。これらの体験が、被差別部落の被爆体験を連載のテーマに選ぶきっかけともなった。
     岡さんをはじめ、長崎で平和運動に携わる人たちは、毎年毎年、入れ替わり立ち代わりやって来る「よそ者」の記者たちに懇切丁寧に被爆者の戦後を語った。長崎原爆被災者協議会(被災協)の事務局にいた通称「おてるさん」という女性もその一人。「まあた、新人が来たの?」と、いかにもうんざりしたような顔をしながら、記者が繰り出す初歩的な質問にも真剣に答えてくれた。被爆者運動の先頭に立ち、国連軍縮総会で少年時代のケロイドの写真を手に「ノーモア・ヒバクシャ」と叫んだ山口仙二さんや谷口稜曄さんもしかり。このような人たちが、核廃絶と被爆者問題に関心を持つ多くの「ナガサキ記者」を育て、全国に送り出して行ったのだと、今あらためて思う。
     ◇「使命と原点」忘れぬために
     被差別部落の被爆体験を連載した昭和56年。大阪からある中学校の生徒たちが長崎を訪れ、部落の被爆体験の聞き取り活動をした。校区内に被差別地区があるというこの中学校は、人権教育の先進校。教師と生徒が一丸となって人権問題に取り組み、事前学習を重ねて長崎に来た。「戦争こそ最大の差別」「原爆は最大の人権侵害」と言い切る生徒たちの姿に、正直言って大きな衝撃とともにある種の違和感を覚えた。われわれが受けた「みんな仲良く」式の平和教育とはまったく違う、「平和は勝ち取るもの」という強い戦闘性、メッセージ性を感じたからかも知れない。
     それ以来、私は「原爆問題とは、結局は教育の問題に行き着くのではないか」と考えるようになった。被爆者は、やがて一人もいなくなる。社内から戦争体験を持つ記者もいなくなり、戦争を知らぬ記者が戦争の悲惨さを語り継がねばならない時代がやがて来る…。
     それから30余年が経ち、当時の思いは現実になった。いま、記者たちは「また聞き」でしか戦争を語れない。紙面で「戦争体験を風化させてはならない」と訴えるのは容易だが、全国で唯一、広島・長崎の両支局で原爆の惨禍にあった地方紙として、それに恥じぬ報道を貫けているかどうか。戦後75年を経てもなお、飽くなき歴史の真実追求と批判の精神を保ち続けているかどうか。
     原爆報道とは、記者自らが新聞の使命と原点を問い続けねばならない「究極のキャンペーン報道」でもある。



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